昭和43年11月6日  朝の御理解


  御理解第5節「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

  「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても片便で願い捨てであろうが。それでも一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのじゃ」と これを頂いてまいりまして、これまで、ね、金光教という、う~、信心が、金光大神の取り次ぎによってお互いが助けられるようになったら、以前は神がものを言うて聞かせるということがなかったと、けれども以来、それからこちらは、ね、神がものを言うて聞かせる、いわゆる金光大神が教えて下さるということ、これは神がものを言うて下さることである、それでも、「一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのじゃ」と 、金光様の私御信心を頂いておっても、あの、「一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのじゃ」というおかげをおかげだけで、え~、死んでしまっておるような人も沢山私あろうかと思います、ね、わざわざ言わば金光教じゃなくても良いということ。
  昨日の壮年部会で、久留米の石井さんがそれによく似たようなことを言ってました、「もう拝む対象は金光様だけでは、天理教様々何様でも良い、自分で現して行く神だから」といったようなことを言ってましたが、やはり極端な言い方ですけれども、なら金光様の御信心を毎日お参りをして頂いておってもですね、やはりあのそういうようなおかげしか頂けない人が沢山おるんだと思うんです、ね、「わが心に神がござるから一心を立てればおかげになる」というおかげなのだ、だからそれではですね、あの本当の金光様の値打ちというのは発揮されないのです、ね、一心、わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃというおかげであったらこれはわざわざ金光様の御信心(?)、それは教会にお参りしなくても良いのです、ね、けれどもうんなら毎日お参りさして頂きよっても、沢山のご信者がありましょうけれども、そのご信者がです、ね、やっぱりそこまでのおかげしか頂けないと人がどのくらい多いか分からないです、ね、ただ一心に拝むとか、一心に金光様唱えてから、「金光様金光様」と一心に唱えておかげを頂くと、それはなら金光様じゃなくても良い、ね、お地蔵様でも良からなければ御観音様でも良い、「一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるじゃ」、それはなら今まで私共が神様より仏様ぞと言うてきたのじゃなくても良い、ね、この柱一本に自分の祈りの焦点を置いて、この柱を拝んでも良い、それと同じような信心からぬけきらんでおる、なら金光教の信者がどのくらい多いか分からないと言うか、これではね、本当に金光大神が言うて下さっておるようなおかげになってこない、御理解4節の中に、ね最後のところにございますように、ね、「金光大神の言う事に背かぬよう良く守って信心せよ」というところがありますよね、「金光大神の言う事に背かぬよう良く守って信心せよ」と、金光様の御信心はもうこれ以外にないのです、ね、金光様が言うて下さる、教えて下さる、ね、これまで神がもの言うてくれることはなかったけれども、これからは言わば片便の願い捨てではない、お前達が願うたら願いに対するところの神の答えがある、その神の言う事を良く守って信心せよとある、ね、ですから、沢山な、金光様の御信心をする者は沢山あるけれども、なるほど「金光様」と唱えてはおるけれども、ただ「わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃ」というおかげしか受けていない、片便的なおかげである、ね、ここんところをですね、お互いがよくよく分からして頂いて、ね、金光教によらなければ助からない、金光教によらなければおかげは、本当のおかげにならない、という私は肝心なところに触れ、肝心なところを頂いていかなければです、結局私共は日々背信の行為と言うか、ね、いわゆる金光大神に背いて日々を生活さして頂いておるというのであっては、これは本当に金光様のご信者とは言えない、ね、ただわが心の中に神がござるから一心を立てればおかげになるのじゃというおかげだけでは、私共は、ね、背信の信心をしておるということになるのです、金光大神に背いた信心をしておるということになるのです。
  金光大神に背いた信心、ね、確かにここに「一心を立てればおかになる」とおっしゃるその、ね、一心を立てて、立てることによって頂くところのおかげ、ね、同時に金光大神の言われる事に背かぬように信心するということによってです、言わば行き戻りおかげの頂けれるおかげであって初めて人間の、いや人間のじゃない、金光教によらなければ助かられない、本当の助かりがあると私は思う、ね、ただ合楽に一生懸命参ってくる、一生懸命拝みよる、一生懸命御用しよる、わが心も、にござる神様へ、一心が立つためのそれはあ~、一つの、お~、テクニックと言うですかね、ではありましょう、ね、一生懸命お参りをする、ね、一生懸命御用さしてもらう、ね、それはわが心の、に神がござるから、一心を立てればおかげになるのである、そういう(?)一心を立てておるけれども、それはわが心から生まれてくる、言わばおかげなのである、だからそれも必要ならです、ね、金光大神が教えた事に背かぬように、良く守って信心せよというところに、まいりませんとです、やっぱ御理解5節のこの片便の願い捨て的なおかげにしかならんのです、ね、言うなら半分しかおかげが受けられん、しかもその半分のおかげなら必ず金光様じゃなくても良いというとです、ね、何様神様も言うこともいらん、自分の家ででも良いということ、拝まにゃいけんなら柱を向かって拝みゃあそれでも良いということ、それでもわが心に神がござるからおかげになるのじゃと、もうおかげになる、ね、ねだからそっ、「金光様の御信心頂いております」と言うても、ただそれまでのやったら、やはり今までと同じで「片便の願い捨てであろうが」とおっしゃるような片便の願い捨て的な信心であり、おかげに止まってしまうのです。
  「生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだことなし、此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」それとこれとが一つになり、一心になる、ね、私共が、そういうわが心にござる神様と、ね、いわゆる教祖金光大神の上に現れておられる天地金乃神様と、ね、その神様とその神様が一心になる、ね。
  え~四神様のお言葉の中に、ね、「おかげは神から出るとは思うな、みな氏子の心から出るのじゃ」と、おかげは神から出るのじゃない、氏子の心から出るのじゃと、これは私ここんところの一面を教えておられる、一心を立てるということについての御理解であると思うですね、ですからこれは言わば金光様の御信心じゃなくても、一心を立てればやはりおかげになる、自分の心から出てくるのだと言われちょる、そのおかげも必要だけれども、いやそういうおかげだけしか頂かんで終わって「金光様の御信心を頂いております」と言うのがどのくらいおるか分からない、毎日が言わば背信の信心だ、心に背いた信心、金光様の言わばお心に背いた信心、それではやはり本当のおかげにならない、いわゆる片便の願い捨て的なおかげにしかならない、どうでも私共がですね、金光様が言うて下さる教えて下さることをです、これっきり良く守って信心さしてもらうというところから、ね、いわゆる金光教によらなければ助かられない助かりと言うか、ね、まあ具体的に言うならどういうことになりますでしょうかね、教祖様の教えて下さることを良く守って行くところにです、自分の、お~我とでも言おうかね、我情とでも言おうか我欲とでも言おうか、ね、そういうものが取れていくのです、自分ではどうにも出来ない我情、自分ではどうにも出来ない我欲、ただ一心に拝んで行くとか、「一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるじゃ」というおかげを良し頂き続けて参りましても、これは我情我欲を、放していくというような、言わばお道の信心によらなければというようなおかげになってこない、ね、それを三代金光様が、お言葉の中にもありますように、ね、「始めの間は辛うて辛うてよう泣きましたが」と、ね、「親様、親様、金光様がおっしゃることを、ね、守っておりましたら」とこうおっしゃる、いわゆる金光大神が言われる事に背かぬように、いや泣く泣くでも辛抱さして頂きよりましたらということなんだ、ね、「思う事も泣くなり、欲しいものもなくなり」全くここに我情我欲の放れた姿、いわゆる、わが身は神徳の中に生かされてある喜びをこれに感じさして頂きながら、ね、金光様の御一代が終わっておる、ね、私は金光教の信心はここんところにね、焦点をおかなければいけないと思うんです、「ほんなこっちゃろうか」と疑わせることがあるかもしれません、「とてもそんなもんなこと」というようなことがあるかもしれません、けれども金光大神が言われる事を素直に、ね、聞かせて頂くというところからですね、確かに欲しい物もなくなり、思う事もなくなるというような、いわゆる金光教の信心によらなければ頂けない境地、ね、いわゆるわが身は神徳の中に生かされあるという喜びの信心がそこから生まれてくる、ね、そうなってまいりますところにここんところが分かるでしょうが、「生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだとこなし、此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」と、ね、金光様が言われる事を守って行きよるとですね、「此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」と、ね、自分、私共のような、言わば、あ~、つたない信心でありましても、金光様のおっしゃる事を守らして頂きよる内にです天地と一心になれる、言うならば天地の御神徳の中に生かされてある喜びが分かってくる、もう一緒になる、先日でしたかね、御神徳の溢れておるこの中におってもその御神徳を自分の身に感じきれないというのは、金光様の教えて下さる事を守らないから、感じ取れないのです、理屈の上では分かっとる、ね、この、私共人間の世の中に、ね、天地のお恵みが溢れておるということは、ね、天地のお恵みがいっぱいであることは話しを聞きゃぁ誰でも「はぁそうだなぁ」と「なるほど」と合点が行くように分かるけれども、それを実感して「お恵みだなぁ、おかげだなぁ」と分かることは出来ない、ね、けれども、金光様が教えて下さる事、金光大神が教える事に背かぬように信心して行きよるとです、それが分かっていく、これが有り難いのである、どうでしょうかね皆さん、こうやって信心を毎日なさり、こうして一生懸命稽古をなさり、ね、もうしかも十年にもなり十五年にもなるという、皆さんがですよ、ね、「金光大神の言う事に背かぬように、よく守って信心せよ」というところが出けてきよるならですね、少しづつわが身は神徳の中に生かされてあると、いわゆる天地と一心と、金光大神が言うておられる、「此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」と言うようなところ、神徳の中に生かされてある喜びが、こう出来てくる、このよろっ、この喜びに、この喜びに、おかげが伴のうてくる、ね、いよいよ人間が素直になってくる、いよいよ垢抜けしてくる、いよいよ我がなくなってくる、いよいよ我欲と我情がなくなってくる、ただわが心に神がござるから一心を立てておる、「わが心に神がござるからおかげになるのじゃ」といったようなおかげをですね、頂き続けたところでです、ね、むしろ我が強うなったり、いわゆるゴショ根性というわけ、ね、いわゆる返ってそういう根性が強うなっていく、「有り難うて有り難うてお礼の足りないお詫びばかりをいたしております」とおっしゃるような、三代金光様のああいう心に近づかして頂くことは出来ん、そのような完璧な事にはなかなか出来んにしましても、そういう線に沿うてのお互い信心、ね、三代金光様のお言葉、三代金光様のその御信心、それが私共の何よりもの、言わば一番身近な手本であり、金光様の御信心はここを頂かなければ、その値打ちは、金光様の、金光教の信心の値打ちはない。
  「これまでは、どこへ参っても片便の願い捨てであろうが」と、教えておられますがです、金光様の御信心を何十年しておってもやはり片便の願い捨て的なおかげしか頂いていないとするならです、ね、それは本当に、い~かるっ、相すまんことであり、また自分としてはこんなに馬鹿らしい話しはないということです、ね、行き戻り、ね、おかげの受けられる道におりながら、それを片便の願い捨て的なおかげでしまえてしまう、ったしまう金光様の御信者であっては相すまん、金光教の信者でなからなければ受けられない、金光教でなからなければ助かられない助かり、ね、これはもう金光教じゃなからなければ助かられない助かりという、その助かりにお互いが触れていくおかげを頂きたい、それにはどうでも「金光大神の言う事に背かぬようによく守って信心せよ」というところがなされるということと同時にね、ほとんどの金光教信者が、あ~頂いております、なら一心を立てるだけ、一生懸命拝むだけ、一生懸命参っておるだけ、一生懸命御用するだけ、ね、そこから生まれてくるところのおかげというものは、いかにそれはあらたかなおかげを頂いておるようであっても、ね、それはどこまでも片便の願い捨て的なおかげである、ね、親金光様が教えて下さる、言うて下さる、た事だから、始めの間はそれを守る事が非常に辛かったけれども、それを守って行く内には、思う事もなくなる、欲しいものもなくなったと三代様が述懐しておられますようにです、私共がなるほど教祖様が教えて下さる、簡単な事でもですそれを頂き続ける自分のものにするということは、なるほど泣く泣く辛抱しなければならんというところに行くか分かりません、だと思います、またそうです、ね、けれどもそこんところを泣く泣くでも辛抱しぬかして頂きよるところからです、ね、私、私では、ね、私では、または他の信心ではどうにも出来ないもの、ね、ただ拝むことだけではどうにも出来ないもの、それはですね、おかげ頂いていけれるのです、いわゆる自分のまあ我と言うかね。
  自分では改まろうと思うても改まれない、どうにもいけない、こげなことが、こげなものがあっちゃおかげにならんことがよ~う分かるお話しを頂けば頂くほど、けれどもどうにも出けない、そりゃ取り組んでおるけれどもどうにも出けない、「もう自分などうしてこげな性格じゃろか、どういう自分はこういう汚い心を持っておるじゃろうか」と、いくらそれをへきへきとしましてもですよね、しようないですこれは、ところがですね、不思議な事には金光大神の言われる事を背かぬように守って行きよるとです、それが何時の間にか取れて行く、ね、そこんところが有り難いじゃないですか、ね、何時の間にか言うならばふたりぬりようになっておる、お話しを頂いてから「はぁこんなことじゃおかげ頂かれんね」と、「ここんところばいっちょ俺はおかげ頂きゃにゃん」と気付いても分かってもですよ、それはただ一心を立てて一生懸命拝んで、言わばうんなら、あ~水行、お~、火の行水の行例えばするような一生懸命な事をしてもですね、それはなかなか取れるもんじゃありませんです、もうその中に染み込んでおるようなもんだから、人間のその心に、ところがそういう頑固なものであってもです、金光大神の言われることに背かぬように信心して行きよるとですね、これは私のささやかな体験ですけれども、ね、本当に私の身の上には、ささやかな体験ですけれども、確かに人相が変るようなごたるおかげを受けられるって、ね、例えば、あの、顔の内に痣がありますよね、この痣は(?)に不自由しない痣だと、この痣は、え~こういう汚い癖のある痣だと、顔に表れてるって痣に、ということ聞いたことがあるんです、ところが金光大神の言われる事に背かぬように信心してるとですね、その痣がなくなるから不思議ですよ、本当に、どうも出けない事がどうにもなることが分かるでしょうが、ね、「これはもう私の癌のようなもんだから、この癌ば取ればもう私は死んでしまう」と、よううように難しいものでもです、何時の間にか取れてくる、ね、そこんところが合間ってですね、なるほどわが心に神がござるからというその一心を立ててお参りにも御用にも、一心を、言わば一足でも無駄にはさせんとおっしゃるのですから、(?)はしません、けれどもそれならわざわざ金光様のことはいらん、わざわざ合楽来ることはいらんということ、ね、夕べのキヨシさんの話しじゃないけれども、ね、自分で自分の心から現して行く神様でそれで結構おかげは受けられるって、ね、けれどももう金光教によらなければ助からないと、金光教によらなければ人間の本当の幸せはありえない、というようなおかげ、ね、三代金光様がおっしゃるその、ね、「欲しいものもなくなり、思う事もなくなり、ただ有り難うて有り難うて」というような心の状態は開けてこない、ね、それを頂けるところにです、私はお道の信心は、御理解第5節はそういう意味において頂かなければいけない、「これまで神がものを言うて聞かせることはるまい、どこへ参っても片便の願い捨てであろうが、それでも一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるじゃ、生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだことなし、此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」ね、「天も地も昔から死んだことなし」と、そういう私は生きた働きがです、教祖様の教えて下さることを行じそれをよく守るということろにです、ね、生きた天地の働きが受けられるところにです、言うならば人相が変わり、いわゆる顔に現れておった、例えば悪い運命の元にか、ね、星の元に生まれておった、その星すらが、(?)を変えたり、消えたりするということ、ね、これは教祖金光大神様が教えて下さることをよく守ってというところから、頂けるのであって、これはこの一心を立てただけじゃ出来ん、ね、一心を立てればおかげになることは間違いない、けどそのおかげはですね、金光教によって助かる救われるというような、のではなくて、何様でも同じこと、半分はだから同じことだということ、ね、だから半分をもっ、半分、その今までになかったその半分を持っておるのが金光教だということが言える、ね、そこんところが合間っていたっ、頂いて頂けれる意味合いにおいてもです、日々、ね、金光様の教え、み教えというものを、に背かぬように、自分のものにして行く本気での精進がなされなければならないということを今日の御理解から分からして頂きますですね。                どうぞ。